西新宿界隈に生息する男のブログ

東日本大震災からもうすぐ3年。福島第一原発事故後も関東に暮らす3500万人に思うこと。

2月もあと2日で終わり、もうすぐ3月だ。

3月と言えば、2011年以降、日本人が忘れられない日付がある。

そう、東日本大震災が発生した3月11日。

マグニチュード9という日本では前例の無い規模の巨大地震。

14時46分から始まった猛烈な揺れ、それに続く津波、そして福島第一原発の事故。

あれから、もう3年が経とうとしている。

あの地震の時私は、西新宿の自宅に居た。

自宅はそれほど高層階では無いのだが、ぐらりぐらりと大きい揺れが長時間続き、生きた心地がしなかった。

耐震性には一応の信頼は置いていたが、ミシミシミシミシ… ギーギーギーギー…という音がなり、恐怖を増幅させた。

当然、部屋は滅茶苦茶になった。

だが、結局私は、多くの関東に暮らす人と同じように、怪我一つせず、生き残った。

そしてその後、1時間としないうちに、テレビには津波に飲み込まれる街が映しだされ、

そこで同時に飲み込まれる何千、何万という命がある事を…荒れ果てた部屋で呆然と眺めるしか無かった。

やがて津波被害の全貌が徐々に明らかになろうとしている頃、福島第一原発事故が起こっていた。

津波で亡くなられた方には申し訳ないが、関東に暮らす人にとって、

津波で多くの犠牲者が出た事は大変心を痛める出来事である事には違いないが、所詮は他人事であったと思う。

亡くなられた方の冥福を祈り、時には涙しながら悲惨な映像を眺めてはいても、

物流があとどのくらい滞るのだろうか。今後、食べていけるだろうか。
地震の影響で会社は大丈夫だろうか。給料は減りはしないだろうか。

そういった自分の事を一番に考えていたと思う。実際、自分もそうだった。

しかし、原発事故は、自分たちの生存という根本的な部分を揺さぶった。

安全だ、ただちに影響は無いという報道が繰り返されるが、誰もその言葉は100%信用していなかったと思う。

放射能の影響を恐れ、西日本へと避難する人も多くいただろう。

しかし、自分を含め、大半の人は、原発事故後も関東に残り、そこで暮らした。

窓は出来るだけ開けず、水は備蓄してあったミネラルウォーターを飲み、できるだけ外出はしない。

出来る事はその位だ。

自分としては、その時、自分の生というものを久々に見つめなおす事になったと思う。

どれだけ脳天気な人でも、前向きな人でも、放射能の影響が全く無い。0であると考える人はほぼいないだろう。

例えば10年後、20年後、自分が放射能の影響で癌で死ぬかもしれない。少しでもその可能性が無いとは誰もいいきれない。

でも…そうなったらそうなたったで構わない。日本は狭い。どこへ逃げようと、少なからず影響は免れないだろう。
例え寿命が多少なりとも短くなる事があるとしても…自分はここに住み続けよう。

そういう「覚悟」みたいなものを人生で初めて強く感じたのを憶えている。

もうあれから3年が経とうとしているが、根本的な問題は、今でも変わらないだろうと思う。

撒き散らされた放射性物質は、もう極わずかになっていようが、確かに、そこら中にあるのだ。

20年後、30年後に、放射性物質の影響で癌や白血病で死ぬ人の割合が何%増えるのか。それはまだ誰にもわからない。

50%かもしれないし、10%かもしれないし、1%かもしれないし、0.05%かもしれない。

ただ、0%という事は無いだろうという事は誰の目にも明らかだ。

そして、その5%なり20%なりの放射性物質の影響で癌で死ぬ事になるグループに自分が入るかどうか。

その答えもまた、誰も知らないのである。

さらに言えば、20年、30年後に、例え癌で亡くなる人が大幅に増えたとしても。

その原因が原発事故にあるか否かという答えを明確に出す事は難しいだろう。

癌の原因はあまりに多岐に渡り、その時の様々な要因によって異なるものだから…

年齢構成や医学事情も含めて、現在と30年後とでは大きく人が暮らす環境が異なる以上、答えを出すことはまず不可能だ。

結局、永遠に、謎のままで終わってしまうのである。

原発事故で増えた放射能より、飛行機で移動した際に浴びる放射能が多かったり、放射能が多くある地域が世界には多くあって、そこでは人が健康に暮らしているのだから、安全だという論じる向きもあったが、それは全く論点が違う。

飛行機で浴びる放射能と、放射性物質を含む食べ物を口にする事を同列に語ることは無理があるし

放射能が人体に及ぼす影響は、人それぞれ感受性に個体差があるものだろうから、放射能が高い地域に暮らす人は

耐性が無いものが淘汰され、放射能の影響を受けにくい人が生き残っていく過程があるという事を忘れてはならない。

結局、「100%安全」なんてものは、どの角度から見ても無いのである。

あれから、3年。今でも、母親と子供で西日本へ避難し、夫は関東に単身で住まう人も多く、

もう安全だから戻ってきて欲しいと願う夫と、子供の安全の為と思って帰れない妻の間での、離婚が増えているとも聞く。

判断する価値基準が、自分や子供の命に関わるものだから。考え方の違いは決して埋められないものもあるのだろう。

あの地震は多くの日本人の運命を変えた。そして多くの関東・東北に暮らす人々に、そこで暮らす「覚悟」を求めた。

この現実は、何年たっても、何十年たっても変わらない。もう、原発事故は無かった事には出来ないのだ。

ここまで書くと勘違いされそうだから言っておくが、

ちなみに私は、いわゆる危険厨でも、反原発主義者でも無い。

ただ…仕事、環境、住居、その他色々なものと、自分の寿命を天秤にかけ、

その上でここで暮らすと決めた事。その事を大地震から3年というこの期に再び見つめなおした。

その覚悟は、まだ変わっていない様だ。これからもこの街で生き続けよう。

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