西新宿界隈に生息する男のブログ

お釈迦様と科学と宗教(3)

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[科学というものの信憑性]

実は、私は大学では化学専攻であった。
新卒で入ったのは化学系の企業である。それからややあって…今の仕事は全くもって化学分野ではないのだが…。
それはさておき、これでも一応は科学に長く携わって来たといってもいい。

長く科学に接して来て思う事がある。

宗教の事をまやかしに過ぎないと批判する向きが無宗教の者にはあるだろうが、

科学とて、まやかしにすぎない点では何も変わりは無い。

例えば、かの有名なアインシュタインの相対性理論とて、光速度が不変であるというマイケルソン・モーリーの実験の結果をもとに、うまく説明出来る様に作られた仮説に過ぎないと私は思っている。

ざっくり言えば、とりあえず、光速度は不変なんだという事を仮定に置き、
それに対しての物の動きをうまく説明出来る様に完成させたのが、相対性理論である。

実際そうする事で、少なくとも、「宇宙はエーテルで満たされている」などという理論よりは、うまく説明できる。

しかし、相対性理論の大前提である光速度不変の原理は、実験がもたらしたただの結果に過ぎず、これを完全証明する事は出来ない。
つまり、どれだけつきつめても仮説のままなのである。

ニュートン力学、相対性理論、量子力学などを筆頭に、他の科学の分野の様々な理論にも、証明ができていない仮説というものから成り立っているものは多い。

むしろ、科学の殆どは、

うまく説明できる仮説を元に、無理が出てきた所を他の仮説で埋め、何重にも仮説を積み重ねて出来上がっているものばかりだ。

ほぼ正しいのかも知れないが、100%正しいとは全くもって言い切れないのが、科学の本質なのだと思う。
こう考えた時、科学は真実で正義であり、宗教はまやかしであり邪であると果たして言い切れるだろうか。
実際に、意外に思うかもしれないが、科学に携わる人間には、熱心な宗教の信者が少なくない。

科学に携わり、知れば知る程に、科学は必ずしも真実ではなく、仮説の積み上げによるまやかしに過ぎないという事がわかってしまう。

でも、唯一信じられると思っていた科学が信じられないとなると、
結局、世の中は何なのかという答えを教えてくれるものは何もなくなってしまう。

私の様に、突き詰めたら自分がなぜ存在しているんだという簡単な事すらも何も分からなくなってしまうが
とりあえず分からないものは分からないのだからそれはそれで仕方ないじゃないかと考える事が出来るならそれでいいかもしれないが…

自己や他や世界が存在する理由が分からない事は不安だという人は、科学を知り、それが仮説の積み上げによるまやかしに過ぎないと知ってしまったら、もはや頼るべきは宗教しか無いのではないかとも思う。

 

つまり、科学も宗教も。

この世の中を、人々がうまく納得出来るように、上手に説明し、安心させる事が出来る側面を持つという意味では同じ様なものだろう。

ただ、往々にして宗教は技術の発展を妨げ、科学は技術の発展を支えてきた。

世の中の人全てが科学を否定したら、技術的な進歩はまず不可能だろう。その点は科学に分を上げたいところだが…
果たして技術の進歩は、人類を幸福にしたかどうかと問えば、その答えは見つけ様も無いし

人類が幸せになる事と不幸になる事それぞれに果たして何の意味があるのかと考えるなら、その意味を見つける事もまた不可能である。
科学と宗教、どちらを信じようと、本当の答えなんてものはどこにも無いのである…。

 

以上、これにてお釈迦様と科学と宗教については終わりです。

長い与太話にお付き合いいただき、ありがとうございました。

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